ひとりビジネス研究

自分がすでに持っているものが 、スキルとして稼げる商材になる時代

管理人 生い立ち

 

しらとりの生い立ちです。


私って、こんな大変な人だったんです

という主張で書いたわけではないです。


同じような境遇にいるかたが
相談しやすくなればと思い、書きました。


また、不眠や体調不良など
30年以上、続いていたのですが

それが心の持ち方や
ストレスからくるということも身に染みてわかり
解決もしてきました。


ストレスを抱えてる方が
相談しやすくなればとも思っています。

 

興味ない方は
スルーしていただければ幸いです。

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私は長野県の山奥に生まれました。

海抜1200mの山奥です。


夏はクーラーなし
冬は背の高さまで雪が降るような場所でした。


朝、目が覚めて窓をあけると
雲海が見えるほどの山奥。


公園も遊具もなにもないおかげで
傷だらけになって野山をかけめぐりる日々
日が暮れても帰らず
走り回っていました。


おかげで足腰は丈夫になりました。


当時つくった足の傷やアザは
まだ残ってるので
冬はタイツで隠せますが
夏はつらいっす


生まれたところはそんなド田舎でしたが

父の家柄は総本家の長男であったこともあり
家族はプライドが高かったかとは思います。


自由奔放な母と結婚し
長女として私が生まれ
そのあと、長男として弟が生まれました。


子育てはとても厳しいものでした。


殴る蹴るはあたりまえ
(そういう時代だったのかもしれないです)
コップを倒したり、失敗をすると
母親から即座に平手打ちされ張り飛ばされました。


殴られた時の
耳に残る、きーんという耳鳴りと、ほほの痛み
地面に勢いで打ち付けられてた土の味
今でも思い出します。


18歳をすぎ、一人暮らしをはじめ
コップを倒したとき

身体中に力が入り、思わず目を閉じてしまいました。

コップを倒すと、その瞬間、殴られていたので

反射的に身体に力が入るクセがついていたことに気が付きました。


すでに一人暮らしなので、だれにも殴られたりしませんけれども
今はさすがに、そのクセは抜けました。


兄弟げんかなどをすると
すぐ土蔵に閉じ込められました。


土蔵ってあんま言わないですかね
蔵みたいなやつです。


母が
「ここにはネズミがいるのよ
人食いネズミでね
あんたも食べられちゃうわよ」

とか言うんですよ。

こわかったーー。

数時間後には自分の体が
食べられてるのでは、と・・・こわくてこわくて

 

たまに私が、かんしゃくを起こすと
母親に、殴るなどされ
「うるさい! 歯を食いしばって耐えろ!」
と、言われて小さな粒の薬を飲まされていたのですが

なんだろうと
調べてみたら

宇津救命丸でした。
子供のストレスに効果がある薬だそうです。

救心かと思っていました。
どうき、息切れの薬を飲んでいたのかと勘違いしていました。

 

自分の意見を強く言ったり
かんしゃくを起こすと、
母親から殴られたりするので

そのころから、自分の感情を

出すことができなくなっていました。


子育てがひと段落した母は
パートに出ましたが
そこで、パート先の方と恋に落ちます。


父は職人気質で、さっぱりした性格のため
やさしくてラブレターなんか書いてくれる
パート先での彼がとても素敵に思えたのかもしれません。


そのラブレターを大事にしているのはいいのですが
なぜか娘の私に渡して
読んでくれと言ってくるのは
やめてほしかったですねー。
(よっぽどうれしかったんでしょうね)


その後

両親が離婚するまでの間

毎晩、毎晩
父と母は大ゲンカをしていました。


大ゲンカといっても
そんな生易しいものではなく


小学生の私には
〇し合いに見えました。

 

夜中

父と母の怒鳴り声で目が覚め

おそるおそるリビングへ行くと
(その家はそういえば
父が、家族のためにと新築したばかりの家でした)


宮大工、棟梁をつとめる腕っぷしのいい父が
出刃包丁や羅紗切り鋏
(らしゃきりばさみ 布を切るはさみで26cm)ぐらいのもの)
を、片手に持ち


「こ〇してやる」と叫びながら
母親を追いかけていたりしてる日々


ある夜

母親はこれだけは、これだけは捨てないでと
泣きながら、何かを守っていました


家族の写真
アルバム4.5冊でした。


私もやめてくれと
泣き叫びながら、父親に抱きつきましたが


アルバムはほどんと、燃やされてしまって
子供のころの写真は数枚になってしまいました。


まーブサイクな子供だったので
子供のころの写真なんていりませんけどもー。


そんなケンカ、怒鳴り合いのあと
父親は、ほぼ毎晩、家を出ていってしまいました。


夜中、なにかの気配がして
目を覚ますと

母親が、私と弟の枕元に

包丁を持って立ってるんです。


お前たちをこ〇して、自分も〇ぬとか言って。


はーやめてくれ。

そして夜中、母親も出ていってしまったりして


捨てられたのかな・・・帰ってこなかったらどうしようと
むちゃくちゃ怖かったです。

そのころから不眠症です。
ちょっとした物音でも起きてしまうようになりました。


毎晩そんな夜が1年ほど続き


大ゲンカは両親だけにとどまらず
親戚一同も巻き込んでいくのですが


さて、離婚しましょうってなり

子供たちはどっちが引き取るってなったときに


父親の一家が
あととりの弟だけは、連れていかないでくれ
女はいらない、と


私はいらない、と
おばーちゃん、親戚、そのほかの人が言ってるの
聞こえちゃったんですよねー


まったくーー気を使ってくれ。

当時10歳だったんですが
けっこうきつかったです。


そのころ、失語症になりまして
ほとんど言葉を発することができなくなっていましたし
宿題も手につかない
勉強もおいつかない
落ちこぼれみたいになっていまして


学校ではいじめにあい
無視されていたのですが

ある日、上履きに手紙があって
読んでみると


あなたは根暗だから
話したくないという
数名からの宣言でした


あまりにもショックで
母親にその手紙を見せたのですが


あーなつかしいわ
私も、こんなことされたことあるー
私のときはね、と
母親の昔話がはじまり

私の話ではなくなったので
あーもう、この人に話してもダメなのだなーと

相談することができなくなりまして

今も、人に相談したり
自分の話をするのが苦手だったりするのは
そのせいかなーと今、気が付きました。


内弁慶ですけれどもー

(家庭内ではわがままな女っす)

 

親が離婚して
私と弟は、母親についていったのですが
母親は新しい恋人と半年後、すぐに結婚しました。


結婚したてのときは
ひもじかったです。


食べ物をあたえてもらえないとかではないのですが

新しく引っ越ししたアパート
(お風呂もないろころでした)
母と義理の父と
私と弟の4人暮らしでしたが


まっくらになっても
母も父も帰ってこないんです。


今、考えると

母と義理の父はデートしてたのかなと
いつも2人で行動していたので


弟と2人で
暗いアパートで
ごはん、何食べようかー
おなかすいたねー なんて話しながら


頭をよぎるのは
「もしかして、親に捨てられたのかな」
という恐怖

ずっと怖かったです。

 

そのころ、家族で旅行なんかも連れていったもらったのですが

それが怖くて怖くて

 

そのころ、家族で旅行なんかも連れていったもらったのですが
それが怖くて怖くて

 

どこか遠くへ行って
そのまま置いていかれてしまうのでは!?
といつも考えていて

 

高速のパーキングエリアで
自分だけトイレ行くとか怖くて
(ひとり、そこに置いていかれてしまいそうで)
トイレ我慢したり

 

どっかで置いていかれても、自力で帰れるように
持てるだけのお小遣いを持って
今、どこを走ってるのか
地図を確認したりしてる子供でした。
(そのおかげで、今では地図読むの得意ですけれども)

 

その義理の父がまた
本当に厳しくて


テレビは週に1時間しか見てはいけない
勉強しろ(するわけない)が口癖


楽しみは夜中にこっそりラジオを聴くこと。
すごーく小さな音で聞いていたのですが


ある日、それがばれて

夜中、殴る蹴るをされました
「うるさくて、俺が寝れないだろ!」と言いながら
殴られました。


えーーすごく小さな音だよー!?
寝れるだろ!!
(と、言えず)

食事のマナーは特に厳しく
椅子の上に正座して食べろ
すべての器は持って食べろ
残すな
姿勢をよくしろ


などなど

違反すると、平手打ちです。

(ラーメン丼は重くて、つらかったー)

弟はよく
平手打ちされて、椅子から転げ落ちていました。

なんかひでーなー(主観)


他にもいろいろありますが
長くなるので
(すでに長いけども)

 

居場所ないなー
私なんていなくていいんじゃないかなー
と、

疾病や人間関係などの解決しがたい問題から逃れるために〇を選択しようとする状態を「自〇願望」、
具体的な理由はないが漠然と〇を願う状態を「希〇念慮」
コトバンクより)

〇ばっか・・・

 

ということをふっと考えるようになったのは
このあたり、中学生のころでした。


それからしばらく
こじらせていました。


母のことが信用できず
いつかどこかで捨てられるのではという思いは消えず

こんななので家出しました。


お父さんのところに帰りたいーと
夜中にお父さんに連絡をとって
荷物をまとめて


そのまま父の家に行きました。


弟に、この手の話をすると
まったく覚えてないと聞きました。

よかったなーと思いますが

なんかストレスたまっていたのでしょうね

弟は、中二で引きこもりになり
中学、高校もいかず
その後、酒乱になり
今度は親を殴る蹴るしてたので

弟なりにいろいろあったのだろうなと思います。

 

私は、高校3年間は父親のところから通っていましたが

父親にも新しい彼女ができていて


まーその方もけっこうキツい人でして

はじめに挨拶しても
目を合わせてくれないし
家事はしないし
(洗い物、ご飯作るのは私の担当)

父の部屋に仏壇があるので
朝はお線香を立てに
父の部屋に入るのですが

ある日
父の部屋で、彼女がキレていて


なんで、長い髪の毛(私のですね)が部屋に落ちてるの!?
この部屋でなにしてるの!?

と騒いでるんです。

お線香立ててるだけですけども。


お父さんとも、なんとなく仲よくできず。


そんななので
18歳で上京しました。

お父さん
短大の費用を出してくれてありがとう。


仕送りは毎月50,000円
アパート代46,000円

きつかったーー

バイトしていましたけれども
あさっての給料日まで100円もない
なんてこともしょっちゅうでした。

そのころの夢はライター(物書き)

どうしてもライター(物書き)になりたくて

制作会社200社に電話をかけて
募集してないか問い合わせしましたが
どれもうまくいかず


結局
知り合いで
角川書店でライターをしている方とつないでいただき

そこから制作会社で働くことに。


テレビ番組の制作や
雑誌の制作
イベント運営などしていたのですが

自分の書いたものが
テレビに出たり
雑誌にのったり
本当にうれしかったーーー

しかし
当時の制作会社って本当にブラックで


2週間、家に帰れないなんてこともありました。

締め切りは必須なので・・・


会社でシャワー浴びて
あたまにタオル巻きながらパソコンを打って
机の下で毛布にくるまり仮眠する
そんな生活していました。


そのころのOSが Windows3.1
なつかしすぎます。

 

あまりにも忙しすぎて
ある人は一晩で禿げたとか・・・

私は禿げませんでしたが
心を壊しました。


パニック障害になったり
双極性障害になったり
睡眠障害は、小学生のころからですが

体調はいつも悪く
友達に

「ねー しらとりって体調良い日ってあるの?」
と、聞かれていたほどでした。

いつも頭痛いし
身体中痛いし
だるいし
喉痛いし

しかし、どこの病院で
いろいろな検査しても
まったく異常なしでした。


その後、長野へ帰り
1回目の結婚

すぐに妊娠して
娘をさずかりました。


子供って本当にいとおしいものですね
もう何でもできると思いました。

はじめて守りたいものができました。


しかし、結婚した相手の一家がまたまた強烈でして。


時代は平成でしたが
その一家はまだ、江戸時代を生きていたのかってぐらいの考え方でして


嫁の立場は
丁稚奉公(でっちぼうこう)に来た人でした。


嫁はそういうもん

修行させられたのですが
耐えられず


離婚を申し出ましたが


それならば娘は渡さないと騒ぎに。


きちんと調停を起こして
(調停のやり方とか、すんごい調べて自分でやりました)

親権は相手に
監護権(実際にめんどうをみる権利)は私だったのですが


娘には会わせない!と夫の一家でバリケード作られてしまい


ひといときは半年に1度しか娘に会えず


それでも交渉して
やっと月一で会えるようになったのですが・・・

もう離婚で心身ともにやれれて
娘にも会わせてもらえず
つらかったーーー

今、考えてみたら
きちんと監護権のあるんだから
また調停を起こせばよかったーー!


離婚する際に
一人暮らしをする経済的余裕がなかったので
(慰謝料もなく、貯金もわけてもらえず)


離婚して別々に暮らしている
父と母に、それぞれに、しばらく帰っていいかと連絡しましたが

母は、義理の父(母が結婚した人)がイヤがるからダメと
断られました。


父には頭を下げにいきました。


好き勝手に結婚して離婚しました。
行くところがないので
申し訳ないが、帰ってきてもいいかと

父はOKを出してくれました。


父にはすべて正直に話そうと思い
小学生のころから抱えていた気持ちを話ました。

父と母が離婚したときは
2人とも大変だったと思うけれども

子供の私は居場所がなくかんじて
とてもつらく、さみしかったと話しました。


すると父が
「それは本当に申し訳ないことをした
 すまん。
 今から俺にできることはないか」

と言ってくれました。

父とのわだかまりは、それですっかり溶けまして
今では仲良しです。


母との離婚後
父はおばーちゃん(父の母親)に言われたそうです。


男が離婚後に
飲み屋に行って一人で飲んでたら、みじめなもんだ
離婚して数年は
飲みに行くこと、遊びは控えろと

若いころに夫を亡くし
女手一つで4人の子供を育てた、おばーちゃん

強すぎる。

その言葉を、父は守っていたそうです。


家族のために建てたばかりの新築5LDK 平屋に
おばーちゃんと父は2人暮らし。

 

さみしかったし
わびしかったと思います。


父もおばーちゃんも
尊敬する人です。


父とうちとけることができたので

そっか!素直に話せばいいんだ!と
母親にも、同じように話してみましたが

「あんたより私のほうがつらかった!! 
なんでわかってくれないの!?」

と、逆ギレされました。

まだまだ母の傷は癒えていないようです。


数年後

2度目の結婚をしたのですが

彼は一見、誠実な青年で
プロポーズのときには

 

娘さんを引き取るよ!
子供も何人でも生んでくれ!と言ってくれてたのですが

結婚後、彼は豹変しました。DV夫でした。


予期しないことが起きると
相手を殴ってしまって、それを覚えていない人でした。


彼のお母さんに

息子、大変でしょ?すぐ手が出るでしょ?
私も、息子が中学のときに
彼がご飯食べてたから

おいしい?って肩に手をおいたら

いきなり殴る蹴るされて
もうわけがわからないのよ・・と

結婚する前に教えてほしかったーー!


彼は仕事に出ていても
近所で喧嘩したり、手を出したりで
(通り道をふさいだとか、ぶつかったとか、そんなで・・)
警察に呼ばれたことが数回ありました。


そのころ、中学生になった娘が
うちに家出してきてくれたんですよ
2回ほど


もう、お母さんと暮らしたい!!と。


私もやっと娘と暮らせる!と思ったら
そのDV夫が
娘を家に帰しちゃうんですよ
車に乗せて。

 

彼いわく


僕、子供と暮らせない
子供、苦手
だって、僕が子供だもん

結婚する前に言うわけないじゃん
言ったら結婚してくれなかったでしょ?

と、きたもんだ


DV夫の過去も壮絶でして
彼のお父さんは×4?5?って方でして

お父さんは
私が知り合ったころは
60代の女性と事実婚の最中でした。

その女性とは
私はとても仲良くさせていただいていて
話しているのはいつも楽しかったです。


しかし、お父さんが
その彼女と事実婚をしているにも関わらず

息子より年下の中国人の方と恋に落ち

誰にも相談せずに

その中国人の方を結婚してしまいました。

居場所がなくなった事実婚の彼女は
ある日、自ら命を〇ちました。

 

最後に会ったのが
私たち夫婦でした。


彼女があまりにも元気がないので
おいしいものでも食べに行こうと
軽井沢でフレンチのフルコースを食べました。


彼女は笑っていました
悲しそうでしたが


こんなに食べたのは久しぶりだと言っていました。

その夜、じゃあまた会いにくるねとお別れしたあと

彼女は一人で旅立ちました。

準備はずっと前からしていたようで
その日に旅立つことも決めていたようでした


私はなにもできなかったと思っています。

今でも思っています。


そして、そのころ
私の母親が結婚した義理の父が
心臓病を患いました。

母親の一家は
義理の父
弟、母親の3人暮らしでしたが

母親の一家は荒れに荒れていました。

母親は性格がきつく人を追い詰めることろがありまして。


義理の父や
弟や、私を
罵倒し、言葉で追い詰めてるところを何度も見ています。


私も、母親に言われた一言で
パニック障害を発症したことがあり


母親といると心身ともにやられてしまうので
ほとんど家に寄り付きませんでした。


母親と義理の父はそのころ仕事をやめ
昼間から、毎日、安いお酒を呑むようになり


電話をしても
母親は、呂律が回らず
話にならないことがたびたびありました。

そんな中
いっしょに住んでる弟が
母親に暴力を振るうようになり
(昔からですが、とくにこのころがひどかったようです)


もう母親の一家にかかわりたくない!と思っていたところ

義理の父がみずから命を〇ちました。


同じ年に
2人の身近な方を亡くしてしまいました。


そして2番目のダンナさんとも離婚しました。


離婚も大騒ぎで、ほぼ逃げたかんじで


ある日

DV夫は、私の引っ越し先を知っていたもんだから
朝、5時に引っ越し先のアパート前で
奇声を上げてながら、大暴れしたので
すぐ警察呼びました。


それ以来、会っていませんが
生きてるのかさえ不明です。


元夫のお母さんには
とてもよくしていただきました。

ろくにお礼も言わずに離婚してしまいましたが
(DV夫の暴力が怖くて逃げたので)
とても感謝しています。

 

そして今
3度目の結婚中です。

子供も15歳になると
自分で住まいを決めることができます。


娘は私と暮らすことを選び
今、家族3人で暮らして6.7年がすぎました。

今、本当に家の中が平和なんです。


いろいろありましたし
子供に会えないときは
本当に生きてる意味がないと思っていましたが


今、いっしょに暮せていて
やっと家族っぽいことができています。


待ってよかったーーー!


こんなふうに過去を書いてると
なんかひどいことたくさんですが

すべて悪いわけではなく


母の事も父の事も好きですし

親戚も、家族も好きです。

1番目のダンナも2番目のダンナも
嫌いではないですし

(自家用車5台中ベンツ3台、とか

 駅前新築マンション生活とかさせてくれたけど

 でも、ほしいのはそーゆーんじゃなかったなーと)


すごく楽しい生活もさせてもらえました。

感謝しています。


しかし私はずっと
心をこじらせてきました


自分の気持ちがよくわからないのです。

 

以前は、好きとか嫌いも
表現することができなくて

 

好きとか嫌いといか

言っちゃいけないと思っていて

 

好きも嫌いもよくわかんなくなっちゃってました。


子供のころ
自分の自我を出す=痛い思いをする、怖い思いをする


だったので
うまく自分を表現したり、出すことができず


ためてためて
泣きじゃくって爆発するまで

我慢していることすら気が付かないことが
たくさんありました。

 

つらくてつらくて
今にも吐きそうで


どうにかしたくて

心理の勉強をたくさんしました。

そのほか、たくさん本を読んだり
セミナーにいったり
いろいろな方にレッスンしていただいたり

たくさんの時間をつかって


やっと心の「こじらせ」から解放されました。

すると
不眠もましになり
体調もだいぶ、動けるようになってきました。

心がやられると
身体もやられるんだな、と身をもってかんじました。


この心と身体が好調になっていくきっかけは

2019年5月のある日

みどりさんという方との出会いから

「ココロ個性学」という学問に出会え
勉強することができたことです。


もちろん、それだけではないですが
とても大いです。


今日現在2020年4月

約1年かけて
心も体調も
よくなっていったおり

ココロ個性学の
ココロの個性診断士として活動させていただいております。


この1年は


その、みどりさんに出会いだけでなく


たーーーくさんの方に助けていただいて
たーーくさんのことを教えていただいて
たくさんのことを思い出して


わーー!思い出すだけで
泣きそうなぐらいありがたい。


1年前までは
母親のことや
上に書いたような過去のことを
ひっくひっくと泣きながらでないと話せなかったのですが

この1年で

過去のことはどうでもよくなり
泣きもしませんが


出会った方々への感謝で涙が出るーー

といったようになりました。

 

体調もかなりよく
こんなふうに活動できるようになってきました。
(まだまだ寝てるーって日もありますが)

 


この1年、してきたことは


「本当のじぶんを発揮」すること
ただ、その一言につきます。


ココロ個性学は
本当のじぶんを発揮することによって
すべての悩みを解決し
好転することができるというものですが

 

私はずっと、本当にずーーっと
「本当のじぶん」がわからなかったです。


なので、まずは
本当のじぶんを知り、思い出すことからはじめました。


じぶんに向き合うことからはじめました。


親の教育や
世間のルールなど
教えてもらった
「こうしたほうがいい」じぶんでなく


「こうしたい」じぶんを探し、
「本当のじぶん」を思い出すことから始めました。


はじめはできなかったですーー


長女だし、しっかりしなきゃ
礼儀正しく、誠実に
なんてのが当たり前だったから


わがまま言ったり
そんなことしたら嫌われちゃう!って


怖くて怖くて
吐きそうで
できなかったけれども

でもやってみたら、そうでもなかったり

いやだと思うことを
いやだー!って言ってみたり


主人には
「そもそも、わがままな人だよね」と
隠してたつもりがバレてたり。


あらそうですかーみたいな

あんなに怖いと思ってたことが
たいしたことでなかったり


そんな体験をする1年でした。

今ではだいぶ
じぶんらしくいられてる!?のかなと
思える日が多いです。


あんなに恨んだ過去が
(正直、なんで私ばっかり、こんな目にあうのーー!と
いじけていましたし


なんて自分は不幸なんだと
なんて自分はかわいそうな人なんだと

ずっと思っていましたが


その経験があったおかげで
今の私がある!と思えるようになれて

私は、ぜんぜんかわいそうな人じゃない
不幸な人でもないと


心の底から思えるようになりました。


きっかけは
自分の番号が5番だと知ったから

なんだ5番て・・


こちらココロ個性学で出すことができる
自分の番号なんですが
(数字はもちろん人によって違います)


5番のテーマは
「自由」なんです。


はじめて
ココロ個性学の師
誠先生との個別セッションで


先生に

今までの事を話してくださいと言われて


泣きながら
上で書いたような経験を
先生にお話ししたのですが


先生が

しらとりさんは5番の「自由」だよね

今まで経験された環境のように
「本当の、不自由」を体験しないと

本当の「自由」ってなんだかわからないものね

しかも、しらとりさんは
その不自由から抜け出そうと
家出したり、離婚したり

ちゃんと自由を選んで行動してるよね

 

と言われまして

 

もう号泣ですよ。


はぁーーーーってため息つきながら
号泣です。

そっかー
自由を体験したかったんだーと

 

私のしてきたことは
間違いじゃなかったんだー
よかったんだーー

 

なんだか
じぶんの経験してきたこと
すべて納得してしまいまして。

 

あと、先生すげーとなりまして。

今は
ココロ個性学を勉強し

ココロ診断士として活動しています。


じぶんの個性を生かして

今、苦しんでる方や
悩みを抱えてる方
使命をまっとうしたい方
考え方を広めたい方などに


本当のじぶんってなんだろう
好転させるってどういうことだろう
美しく生きるってどういうことだろう

ということを

お伝えできたらなーと思っています。


余談ですが
1年かけて

私も200人ほどセッションしてきましたが

私のまわりに
ココロの持ち方が「自由」の5番は数名おりますが


不自由な環境で育ってる方が
多かったりしています。

5番は「解放」というテーマもあるのですが
テーマゆえに、しんどいところからスタートすることも
あるそうです。


なーるほど


他の番号には

満足する、とか
調和するとか


いろいろなタイプがあります。

知りたいなどありましたら
連絡ください。


キャラクタータイプは
無料で出しています。

 


私はしんどいとき
本当に誰にも相談できなかったですが

今は、いろいろな相談方法がありますし
逃げる方法もたくさんあります。


しんどいときって本当にしんどいので
気軽に相談できる場を
作っていけたらと思っています。


ひとりで悩んでる方が
救われますように
心から祈っています。

 

LINEです。

https://lin.ee/eQs72v6

 
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